小学校1年生の授業場面にて
スクールカウンセラーをしています。スクールカウンセラーは、ときに授業見学をさせてもらうことがあります。ある小学校で勤務していた時の話です。その学校には発達障害のお子さんがいました。そして、ある勤務の日にその子の授業の様子を見てほしいと言われて、小学校1年生の教室に行きました。担任はベテランの先生で、授業は国語の授業。4月の下旬のことで、子どもたちは、ちょうど字を習い始める頃のことでした。
教室の様子
教室は、授業が始まっていても、ざわざわしていました。席の近くに立っている子や遊んでいる子もいます。観察対象となった子どもは、熱心に鉛筆を噛んでいました。担任の先生は教卓の前に立ち、そんな様子を眺めたと思うと、くるりと黒板の方に向いてしまい、静かに息を整え始めました。そんな先生の様子に気づく子どもは少数でした。
ゆっくりと「あ」
担任の先生は、おもむろにチョークを手に取り、ゆっくりとていねいに大きくな字を書き始めました。ひらがなの「あ」です。きれいに拭き取られた黒板に、真っ白な線が引かれていきます。最初は右に向かって、そして縦に1本。そこで深呼吸。そしてまた線が引かれて「あ」の字が完成します。教科書とうり二つの、ほれぼれとするような見事な「あ」です。しかし、この様子に子どもたちは気づいていません。観察対象の子も相変わらず熱心に鉛筆をかじっています。
さらに「い」、そして「う」へ
担任の先生は、黒板の方にまっすぐ向いたまま、まったく子どもたちの方へは振り返りません。子どもには背を向けたまま、今度は「い」の字、そして「う」の字へと、ゆっくり書き進めます。このころになると、先生の動作に気づいて、じーっとその様子を眺める子が出始めます。「わー」と声にならない子、「すごい」と口にする子もいます。この子たちは、先生が書く文字に引き寄せられて、まるで文字の世界に吸い込まれているようにうっとしとしていました。この体験を共有しようと、他の子に、黒板を見るようにうながす子もいます。そして、子どもたちの視線は、次々に黒板の字に向けられ始めました。観察対象の子の手も止まって黒板を見ていました。素晴らしい「あ」、「い」、「う」がそこには並んでいます。
先生、早く教えて
最後は「お」です。このことになると、子どもたちは、「先生、早く教えて」「先生、早く勉強しようよ」といったように、ワクワクした表情で席につき、授業の開始を待っていました。「あいうえお」を書き終えた先生は、やっと子どもたちの方に向き直って、「今日から、字のお勉強をしようね。みんなが上手に書けるようにがんばろうね」といって授業が始まりました。子どもたちが熱心に授業に取り組んだことは言うまでもありません。観察対象の子もがんばって取り組んでいました。
プロの力量
授業開始のチャイムが鳴ってから、わずか5分ほどの光景でしたが、教育のプロの力量をまざまざと見せつけられたような衝撃を受けました。心理の専門家の出る幕など全くなかったわけです。その後も、ときどき授業を見せてもらいましたが、この学級は、とても良い雰囲気で授業が進んでいました。観察対象となった子は、落ち着かないときもあったのですが、先生とこの学級が大好きだと言っていました。この子の1年間の成長は目を見張るものがありました。
学生も感化される
この話を教育学部の学生たちに話すと、喜んでくれる人がたくさんいます。そんな先生になりたいと言ってくれる学生もいますし、字を丁寧に書こうと努力し始める学生もいます。教育の世界は、こういう人たちの努力で営まれています。子どもたちばかりでなく、先生たちも豊かに学べるような学校になってもらいたいと思っています。
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