卒業式の緊張感
学校関係で仕事をしていますから、いろいろな行事に参加する機会があります。その中で最も厳粛な行事は「卒業式」です。ピーンと空気が張りつめていて、緊張感が別格です。
小学校の卒業式などでは、いつもとあまりにも違う雰囲気なので、緊張がピークに達して、具合が悪くなってしまう子どもが続出することもあります。
自信満々
それとは反対に、小学校の卒業式では、本当に立派な姿を見せてくれる子どもたちも大勢います。堂々として力強く、自信にみなぎっているのです。
ある小学校の先生によると「小学校の卒業式では、子どもは自分の一番良い姿を親や先生に見てもらおうとする」のだそうです。
自分の子どもの卒業式に出席したりすると、確かにその通りだなと思います。
ところが、中学校の入学式では
さて、それから2週間後。今度は中学校の入学式があります。わずか2週間しか経っていないのですが、子どもたちの様子がまったく様変わりしていて驚きます。
中学校の入学式の子どもたちは、ダブダブの制服姿があどけなく、弱々しくとっても小さく見えます。あの小学校の卒業式で見せた堂々とした姿はどこにいったのでしょうか。
これは時の流れというよりも、社会的地位(social status)の変化という要因が大きいのでしょう。
発達段階
発達心理学では、「乳児期」や「幼児期」、「児童期」や「青年期」といった具合に発達を段階に分けて、その心理を研究します。小学校時代はちょうど「児童期」にあたります。
つまり、小学校の卒業式というのは、児童期が終わる段階です。児童期の完成形といえるでしょう。
あの堂々とした姿、そして、その姿を親や先生に見てもらおうという心理は、児童期の最も完成された姿なのだと思います。最も大人の児童期の姿ともいえそうです。
そして、中学校はちょうど、青年期と呼ばれる時期の始まりのところです。中学校の入学式あたりで、青年が誕生したわけです。最も小さく弱々しい赤ちゃんのような青年たちです。
卒業式・入学式の意味
そう考えると、小学校の卒業式は、児童期の完成形を披露する場であり、中学校の入学式は、青年が誕生したことを祝う式のようにも思われます。
「死と再生」などというと大げさかもしれませんが、卒業式から入学式にかけては、死と再生のストーリーとして理解できるかもしれません。児童期の子どもが消滅し、新たに青年期の青年が誕生するのです。
節目の意味
そういう節目が、子どもを子どもにするし、青年を青年にするのだと思います。
しかし、昨今では、こういう節目のようなものを重視しなくなっています。節目がはっきりしていないということは、それぞれの発達段階で示される大人の姿、つまり完成形がはっきりしないということなのかもしれません。
そうすると、それぞれの完成形を目指したり、それを披露しようとする意欲も漠然としたものになってしまうでしょう。節目が漠然としていくということを考えると、今後大人になりきれない人が増えていくのかもしれません。