目玉と科学的態度

学ぶということ

昔のあるローカル記事

 本が好きなので図書館によく行きます。図書館の奥の奥には、「〇〇市の歴史」みたいなシブイ本もあって、「こんな本をだれが読むのかなあ」などと思いながらパラパラめくっていると、衝撃的な記事がありました。

目の手術の記事

 明治の末か大正期だったか、いつの記事かは思い出せないのですが、遠い昔の話です。我が町のある男性が目を患って左目の眼球を摘出するという手術をしたそうです。大手術だったことでしょう。手術は無事成功に終わったそうです。よかった、よかった。でも話は続きます。

「この目玉、どうする?」

 さて、取り出したこの左目。これをどうするかということで、患者さんとお医者さんとで話し合いがもたれて、なんと小学校に理科の教材として提供しようという話になったそうです。本物を見せるということは、子どもたちの学びにとって実によい教育であると、そんな話し合いだったようです。

 記事の書きぶりも、子どもたちや学校教育にとってとても良いことをした人物として、この患者さんは紹介されていました。記事はここまでです。ちょっと現代では考えられないですね。

 このことに対して学校側はどんな反応だったのだろうか、そんなことを想像してみました。

学校側は?

 おそらく、目玉を届けられた当時の子どもたちは、「こわい」だの、「気持ち悪い」だの、「おばけが出てきそう」などと大騒ぎだったと思います。しかし、記事の書きぶりからすると、「とても良いことをした」というものでしたから、おそらく学校でもこれをポジティブに捉えたことでしょう。

 もちろん、先生たちも子どもたちと同じように感じた人もいたはずです。しかし、校長先生などが「先生方が気味悪がるのはよくわかります。でも、その気持ち悪いという主観的な態度をわきに置いて、客観的にこの目玉を見つめることこそが、科学的態度である!そのような科学的態度を子どもたちに教えるように!」などと話していたかもしれません。こうすればとても役に立つ教材になりますからね。

本物に触れること

 目玉を学校に提供するなどということを、今の学校でやったらとんでもないことになるでしょう。文句を言ってくる人がいるはずですし、マスコミも放ってはおかないでしょう。ただ、本物に触れさせるということは、子どもの教育にとってはとても重要なことだと思います。

 そういえば、学級で豚を飼育してそれを食すまでのプロセスを「命の授業」として実践した学校があったように思います。あれをもう一度読み返してみたいなと、そんなことを考えた日曜日の夕方でした。

 

 

 

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