ぼくは悩んでいいのでしょうか?

こころの成長

ある冬の夜

 ある夜、大学の研究室で仕事をしていました。すると一人の学生がやってきました。顔面蒼白で唇は紫色。がくがくと震えています。真冬の寒い夜ではありましたが様子が変です。

 ちょっと驚いて「どうしたの?」と尋ねてみると、「先生、話を聞いてください」ということです。どうも、気持ちが落ち込んでしまい、大学も欠席が続き、焦るばかりで何も手につかないらしいのです。

珍しい依頼

 話をしっかりと聞こうと思ったところ、この学生は、「実は話を聞いてもらいたいというよりも、この自分の苦しみは、本当に苦しんでよいレベルの苦しみなのかを判断してほしい」ということでした。

 なかなか珍しい依頼です。「苦しいから話を聞いてもらって楽になりたい」というのなら分かるのです。でも、この学生は、楽になるよりずっと手前の「この苦しみは苦しんでよいレベルなのか」、ということが分からなくなっているようでした。

他の人の心と比べる

 「どうして、そのようなことが気になるの?」と尋ねると、この学生は次のように説明してくれました。

 「確かに自分は苦しい。10分の10苦しいです。でも、この10分の10の苦しみを、かりに友だちの心に持って行ったとしたら、その友だちにとっては10分の3程度の苦しみかもしれないじゃないですか。それくらいだったら耐えられると思うんですよ。でもそんなことは分からないから、心理の専門の先生に判断してもらおうと思って」とのことです。

 10分の10苦しいことは絶対的なものとして自覚しているけれども、相対的に判断すると10分の3程度の苦しみかもしれず、もしそうだったら、これを我慢して乗り越えようと思っていたそうです。

自分の感覚を相対評価することは難しい

 この学生は自分の心が苦しみで一杯一杯になっていることをしっかりと自覚しています。でも、その自己感覚を信じられない、ということのようです。自分の感覚を失っているのではなくて、この感覚を信用できないということかもしれません。

 身体の調子が悪い時などは、病院に行くレベルかどうかが分からないということはよくありますよね。まだ我慢するレベルなのか、すぐにでも病院に行くレベルなのか。でも、10分の10苦しければ、あまり迷わず病院に行ったり助けを求めるのではないでしょうか。

 ですので、私は、「十分に苦しんでよいレベルなのではないか」と伝えました。学生はホッとした様子でした。

援助要請行動と外的評価の力

 人に援助を求める行動を、援助要請行動といいます。援助要請行動ができない人は、この学生のように、自分の苦しさをうまく評価できない状態になっているのかもしれません。そんな時には、他者からの評価が役に立つのでしょう。

 ある校長先生から聞いた話なのですが、若手の教員に「大丈夫?」、「大変なことはない?」と聞いてもダメなそうです。「大丈夫です」としか答えられないからです。もう少し踏み込んで、「顔色悪いけど、どうした?」と尋ねてあげるのが良いそうです。そうすると若手教員は、弱音を吐いたり本音を語ったりして、援助要請行動をしやすくなるそうです。

顔色が悪い」という外からの評価によって、やっと自分の苦しみを苦しんでよいレベルなのだと、自覚できるようになるのでしょう。

ところで、ご飯食べている?

 さて、先ほどの学生はその後、どうなったのでしょうか。

 悩みが多くて苦しんでいる人は、ご飯を食べていないことがよくあります。ですので、夕ご飯を食べたかと尋ねてみると、朝から何も食べていないということでした。

 そこで、ご飯を食べに行ったのですが、ご飯を食べると、学生はみるみるうちに顔色が良くなり、唇も赤く健康的になっていきました。心と身体に対応できて、私もホッとしました。

 しっかりとご飯を食べて睡眠をとって、それでも調子が悪ければ保健管理センターに行くように伝えて、この学生とは別れました。

 その後も、この学生には声をかけて見守っていましたが、卒業まで特に調子を崩す様子もなく、無事卒業していきました。

 他者に援助を求めるということは、いろいろな理由で難しいということを学んだ出来事でした。

 

 

 

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