診断と対応
病気になったとしても、診断名がついて原因が分かれば、おのずと治療法や予後も見通せるということがあります。
簡単な例ですが次のような場合です。目がかゆくて鼻はムズムズ。こういう症状は決まって2月下旬から3月にはじまって、4月の中旬くらいまで続く。
こうなれば花粉症と特定できます。花粉症と診断された結果、おのずと薬は選定され、対応策が施され、そして予後も予測がつくでしょう。
しかし、診断名がついたからと言って、それが治療法や予後の予測につながらない病気もたくさんあります。特に精神医学にはそんな病気が山ほどあります。われわれカウンセラーが対応するクライエントの問題も同様です。
不登校の場合は?
不登校というのは診断名ではありません。でもスクールカウンセラーは、不登校という状態から、その子どもの心の状態を見極めようとします。発達段階、家庭環境、子どもの性格、学習能力など、様々な情報を得て、そこから不登校になっている原因を考えて、対応策を練り、ある程度の予後を見通そうとしています。
つまり「見立て」を作るわけです。この見立ては、見立てたことが対応策につながらなければ意味がありません。「対応につながる見立て」であることが求められます。
見立て
見立ては本人や先生、保護者などへの説得力をもち、納得感を喚起するものであるとよりよいと思います。「共感を呼ぶ見立て」とでも言いましょうか。
問題にかかわる人々の「共感を呼ぶ見立て」は、問題に対する共通理解を促進するでしょう。対応のヒントを与えてくれるかもしれませんし、考える意欲を喚起してくれるかもしれません。
しかし、いざ見立てようとしても、当然、一人として同じ人、同じ環境ということはありませんから、答えは無限にあるように思われます。その中から、どのようにある一定の見立てにたどり着くのでしょうか。
これは数学の問題のように明確な解法があるわけではありません。
最良の説明への推論
「共感を呼ぶ見立て」は、言葉を変えると「最良の説明への推論」と言えそうです。不登校であることの最良の説明への推論をしているわけです。見立ては一種の推論と考えられるのですね。
「見立てはどのようになされているのか?」という問いは、「見立てという推論はどのようになされているのか?」という問いに変換できそうです。
それはいったいどのようにしてなされているのでしょうか。
アブダクション
アブダクションという哲学の用語があります。これは、現在知られていること(根拠や証拠)から、まだ知られていないことを推論するというものであり、その推論の目指すことは、仮説として最善(最良)の説明を作り出すことです。
これは、語られたことの意味を組み替えたり、語られていない余白を推測したりしながら、その説明が最善のものになるような推論です。
カウンセリングをしているとき、クライエントさんと熱のこもった対話になるときには、このような「最良の説明への推論」が対話の中心になっていることを感じます。新しい認知というか、新しいストーリーが生み出されているときには「最良の説明への推論」が伴っているいるように感じるのです。
「推し」のストーリーをプロジェクションする
これは、カウンセラーとクライエントとが、同じものをプロジェクション(投射)できるストーリーを創作するということでもあります。これまで語られてきた内容の意味が変わって、生成した同じ新しい意味を読み込んでいくといった感じです。二人で「推し」のストーリーを創作する感じです。
これまで語られてきたストーリーが一次創作であるならば、二次創作をするという感じです。それは、既定の設定に不自然な点や余白を見出して、違和感や疑問を抱くことによってなされます。そうして作られた新しいストーリーがクライエントの視座を変え、その地点から新しいストーリーをプロジェクションすることは、クライエントをエンパワーするストーリーになることがあります。
クライエントがもともと持っていた一次創作に対して違和感や疑問点を見出して、そうではない「推し」のストーリーをプロジェクションすることは、クライエントが自らの問題を解く「最良の説明への推論」がなされている姿のような気がします。
こうなるとカウンセリングは一つの峠を越える気がします。