人生は発見の連続

学ぶということ

筋肉痛?

 特に運動したわけでもないのに、なぜか筋肉痛になることがありました。「そういえば、これまでときどき、理由もわからず筋肉痛になることがあったけど、あれは何だったのかな」と不思議でした。

 そして、ある時、これは筋肉痛ではないということに気づきました。

風邪の前兆

 風邪の前兆に、「節々が痛くなる」という現象があります。私はこの言葉を風邪の初期症状として知っていましが、自分にはあまり関係がないと思っていました。

 悪寒がする、のどが痛くなる、鼻水が出るといった症状は、風邪の症状としてよく分かります。でも「関節が痛くなることはないなあ」と思っていたからです。

「節々が痛い」という感覚を発見する

 冬のある日、前日から急激に気温が下がった日がありました。その日は、たくさんの仕事をこなしていたのですが、昼過ぎ頃から、「なかなか暖房が効かないし、今日は底冷えするな」と感じていました。そして例の筋肉痛もやってきたので、「寒くて筋肉が固まってしまった」などと、ストレッチをして身体を動かしたりしていました。

 それからしばらく仕事を続けていたのですが、いよいよ寒いどころではなくなり、「これは単に寒いのではなく悪寒がしてきたのだ」と判断して、仕事を早めに切り上げて家路についたのですが、その道中、突然、「ああそうか!この身体の痛みは筋肉痛ではなくて、節々が痛いということだ!」、「これが節々が痛いということか!」と気づきました。

 「新しい痛みの感覚を発見した」という思いでした。そして、やはり熱が出て3日ほど寝込みました。

「知っている」と「分かっている」の違い

 「風邪の初期症状として節々が痛くなる」ということは知ってはいるけど、分かってはいなかったのですね。知っていることと分かるということは違うのです。

 思い返すと、「筋肉痛のあとは、たまに熱を出すことがあるから気を付けよう」、「特に冬の筋肉痛は危ない」などと、そこまで注意していながら、この痛みが「節々が痛い」ということだとは気づけなかったのです。

 ある身体の痛みが「筋肉痛」と「節々が痛い」とに分けられて、やっとその意味が分かりました。これによって、身体に関する感覚が以前より細かく見分けられるようになったわけです。

感情や痛みの発見

 われわれは誰しも、幼少期においてはこのような学びを毎日のように繰り返していたのだと思います。特に感情や痛みというものは、それを自分なりに発見して、分かっていかなければなりません。

 幼少期にお腹が痛くなって母親に訴えたところ、「しくしくと痛むの?それともキリキリと痛むの?」などと言われても、「うーん?」となっていました。でも、そのようなことを繰り返していきながら、身体の感覚を掴んだり発見したりしていったのでしょう。

 感情も同じです。「悲しかったね」、「悔しいんだね」という言葉をかけてもらうことで、「自分は悲しいのだな」、「この気持ちを悔しいというのだな」と、その言葉を手掛かりに、感情を発見していくわけです。

老年期に向かって

老年期に向かうにつれて、「知っていたこと」を「発見して分かっていく」ことが多くなっていくのではないかと思っています。最近私は、「老眼」と「目がかすむ」ということが分かってきました。

95歳の祖父に「その年になったら、もうなんでも分かっていて、学ぶことなんて何もないでしょう?」と質問したところ、「最近やっと、腹八分目が身体によいことが分かった」と言っていました。

人生は発見の連続ですね。

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