問題の渦中における技

潜在意識

問題の渦中と「臨床」

鷲田清一さんという有名な哲学者がおられます。その人が書いた「《臨床》というメタファー」を読んでいて、うなずくことばかりでした(鷲田清一(2013)《臨床》というメタファー 現代思想 看護のチカラ 41(11),62-64)。

臨床という言葉は、「床(クリネー)に臥している人のところに出向く医療者のわざ(クリニケー)という、そのギリシャ語が語源にある」(p.62)ことはよく知られています。

臥している人というのは、「死の床にある人」がイメージされますが、そこに限定する必要はありません。臨床心理学の場合、「死の床にある人」だけを対象にしているわけではありませんので。

臨床というのは、要は「問題の渦中に出向くこと」(p.62)です。現場の問題の渦中に出向いて、その現場(field)で仕事(work)をすることです。

ですから、病院への患者の訪問を待つ病院医師は、この語源に照らすと「臨床医」ではないということになる(p.63)と鷲田先生は述べています。なかなか過激です。

フィールドでの居方

わざわざ問題の渦中に入っていて、そこでワークすることですから、臨床を志向することは大変なことです。現場は常に何らかの問題が発生していますし、予見できないことが次々と起こります。いろいろな人がいて、いろいろな規則や慣習などもあり、一筋縄ではいかないことも多いものです。

専門家として問題の渦中に出向いていくと、フィールドから大きな期待を寄せられます。あなたの専門的知見から、問題をアセスメントして解決の方略を示してほしい、という期待です。

自分たちにはない専門的な視点(例えば臨床心理学の視点)から問題を評価して(見立て)、対応の方針を立てほしいという期待。フィールドは、混沌とした渦中に、そうした一貫したストーリーを描いて、見通しを得たいという要望を強くもっています。

しかし、鷲田先生は「一つの視点からあらかじめ見通すこと」(p.63)などできないと言います。確かにその通りだと思います。

では問題の渦中に出向いて行って、その時その場で起こる問題に対して専門性を発揮するにはどうすればいいのでしょうか。

「聴く」でほぐす

まずは聴くこと。問題を論じたり解釈する前に「聴く」ことだそうです。聴く理由は、「ある視点から見えるものを、多視点的なもの、多義的なものへと修復するために、あるいは、言葉にならない小さな声を”声”として迎えるために」(p.69)だそうです。

普通、現場にはたくさんの人がいます。そこには複雑な人間関係の葛藤もあれば、利害も絡んでいでしょう。だからこそ、多義的なものを専門的な視点から一義的なものへと変換して(解釈して)、問題に向き合うのが臨床の方法だと思っていました。

でも鷲田先生は逆だというわけです。ある視点から見える一義的なものを、「多義的なものへと修復する」といいます。

問題の渦中では、一視点から一義的にしか見ないからこそ問題になるのだ、という発想があるのだと思います。だから修復する。「多義的なものへと修復する」。これは固く絡まったストーリーをほぐすという意味なのかもしれません。

以前書いたことのある「問題維持システムを変える」であるとか、「問題維持システムから治療システムへ」であるとかと同じ発想なのだと思います。システム論的な視点からの聴き方が必要であるということでしょう。

専門的知見の棚上げ

二つ目は「専門的知見をいつでも棚上げにできる用意」(p.63)のあることです。多義的なものを多義的にみるためには、自分の専門的知見を棚上げできなければならないそうです。

たしかにそれはそうですが、これはなかなか難しい。専門的知見はわれわれにとって武器のようなものですから。それを棚上げする用意のあることを、鷲田先生は「武装解除」と言っています。

専門家として理論武装し、問題の渦中に入り込み、問題を解決しよう。そう思っていた矢先に、いつでも武装解除する用意をしておけ、と言われる。戸惑います。そんなことをしたら、フィールドの偶然性や非決定性に身をさらすことになります。

理論武装を解いてしまうと生身の自分としてフィールドにさらされますから、おのずとオドオド、ビクビクすることになると思います。するとわが身は、理論武装していた時とはまた違った戦闘態勢になります。野生の勘とでもいいますか、そういうものを頼りにするしかなくなるのです。

敏感性や過覚醒状態になって野性的な思考になるわけです。私の言葉では、専門的不適応ということです。そしてそれが重要だと鷲田先生は言います。

野性的な勘を働きやすくする、それで勝負せざるを得ない状況にわが身をもっていく。そこで専門家として知覚すること感知することを素材にして解決を組み立てていく。そのために、「専門的知見をいつでも棚上げできる用意」をしておく。

無方法の方法

野性的な勘が働きやすい場にわが身を置く。それで勝負する。だから次の三つ目は「無方法の方法」を必要とします。この言葉は哲学者のアドルノの言葉だそうです。使えるものは何でも使うことだと鷲田先生は言います。

本来の使い方ではないかもしれないけど、役立ちそうなものは何でも使う。このことについて、鷲田先生は多くを語っていませんが、ブリコラージュということだと思います。

手元にある素材を使って、その素材がもともとある場所、もともとの使われ方とは違うけれども、それらを組み合わせて何とか解決をデザインしてしまうこと。

そういうデザイン思考が必要なのだと思います。

リモコンの電池を取り換えている場面。単三電池を取り外そうとするがなかなか外れない。爪を立てても外れない。だから手元にあるボールペンをドライバーのように使って電池を外す。こういう感じが「無方法の方法」でしょう。

探究のセンス

そして4つ目が探究のセンスです。野生の勘が働くということはどういうことなのか、ということです。これは「些細ともいえる事象のうちに、なんらかの予兆や兆候、気配や暗示を察知し、読み取るアンテナ、つまりはprecognitionの感応がどうしてもいる」(p.63)とあります。

それは、「あたりをつける、勘所をおさえる、サインを見逃さない、好機を逃さない、全体に目を漂わせる・・・といったセンス」(p.63)だそうです。

これは、カイロス的時間を待つということでもありそうです。「ひょんな事」、「ふとした拍子」、「妙な縁」、「もののはずみ」といった、何かが決定的に変わる瞬間を捉えるセンスです。

以上の四つが、「問題の渦中における技」であると鷲田先生は言います。

理論武装も必要

繰り返しになりますが、こういったことができるためには、かなり敏感でなければなりません。ただし、問題の渦中で敏感になっているというのは、すぐに逃げる準備状態になっているという面もあります。

そう。だからすぐに理論武装もできる必要があるのです。ですから、理論的な面も実践的な面も訓練されておかなければなりません。問題の渦中に出向いて行って、役に立たないばかりか、余計なことを言ってさらに問題を増幅させてしまう。当の専門家はすでに自分の領域に引っ込んでしまって、それでおしまい。そういうことにならないために。

臨床をするには日々の精進と渦中に臨む勇気が必要なのでしょう。なかなか苦しい道ですね。

まとめ

「臨床」とは問題の渦中に出向くこと。そこはフィールドワークの世界。野生の勘を働かせて、使える素材を見出し、予兆や兆候を見逃さないで、決定的瞬間を招き寄せる。臨床の本質とはそういうところにあるように思います。

そういう臨床心理学を作りたいものです。

 

 

 

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