身体とともに
中年の身になって分かるのは、身体にガタがきているということです。何となくいつもどこかが痛い。肩、腰、ひざはテレビのCMでもよくやっていますが、たしかにその通りです。
病院に行っても確定的な診断には至りません。別に悪いところはない、シップを貼って様子を見てくださいと言われるのみ。だから、この痛みとはこれからも付き合っていかなければならないのでしょう。
痛みを通した対話
わたしはこの痛みには意味があると思っています。無理ができなくなってきていることを身体が教えてくれているわけですから。そして痛みは、この身体はいつまで持つのだろうかという考えをもたらします。これからの自分の人生を考えるきっかけになるわけです。
身体と対話しながら人生を考える。自分の身体を大切にする。そこには他人は関係ありません。自分との対話があるのみです。若い頃には実感できなかったことです。これはこれでなかなか豊かなことだと思います。
SVにて
ときどき、自分が担当するケースを聴いてもらってアドバイスをもらうことがあります。この前は、心の中にたくさんの自分がいるというケースの話をしていました。その話の流れで、心の中にはいろいろな人がいるのは当たり前ではないか、ということなりました。
実際にそのように考えている専門家は多いものです。有名なのはユングでしょう。最近では、リチャード・シュワルツという人が「内的家族システム療法」という心理療法を提唱して、心の中にはいろいろなパーツが潜んでいるということを言っています。
パーツというと機械的なので「分身」と言ってもいいと思います。
心の中の分身たち
自分の中にはどんな分身たちがいるのだろうと考えました。「いろいろ知りたい好奇心の分身」、「世話をする分身」、「身体を動かし遊びたい分身」、「批判的で正確性を求める分身」、「クリエイティブなことをしたい分身」、「まあしょうがないかとあきらめの良い分身」・・・。もっとありそうです。
心に問題を抱えている人は、ある分身の声が大きすぎて、他の分身たちは声を上げられない状態にあるのかもしれません。ただ声の大きい分身が悪いわけではありません。それが頑張ってきてくれたから今があるわけですから。
しかし、不調に陥っているのであれば、他の分身たちの声も聞きたい。そうやって、イメージをしながら自分と対話するのです。どの分身のことも否定はしません。
身体にくっついている?
この分身たちは、身体にくっついている、そう考えると面白いのではないかという話にもなりました。
私は「からだを動かしたり遊びたい分身」はひざにくっついているとピンときました。私は散歩が大好きなのですが、その理由は歩いていると気分が高揚してきて、なんだか楽しい気持ちになるからです。
この声が高まってくると、好奇心の分身やクリエイティブな分身も集まってきます。この二つは歩くたびに動く肩や腕にくっついていて、それは歩くたびに肩に広がっていきます。そしてしばらく歩いていると上半身に満ちていく感じです。
逆に散歩に行かない日が続くとひざの痛みは大きくなります。ひざが固まってしまった感覚にもなります。「からだを動かしたり遊びたい分身」が、座ってばかりの生活に警告を発してくれているのでしょう。
心と身体を使って
いろいろな分身たちが身体にいて、私にいろいろなサインを出してくれている。心と身体を使って自己内対話をする。こういうワークが実感を伴って豊かに展開できるようになっていくと、頭だけで考えているときよりも「自分にとっての良い判断」、「自分にとっての最適解」がはっきりしてくることが多いように思います。
ただ、その最適解に向かって動けるかどうかはまた別の問題なのですが。それは思い切ってやってみるという勇気、一歩踏み出す勇気が必要だと思います。その勇気を高めるためにはやってみるしかない。そういう練習を繰り返すしかないのかもしれません。心の声に従って動く練習です。
まとめ
心の問題を考えるとき、身体はヒントになります。ただ私はこの辺りのことがピンときていませんでした。でも最近、身体にガタがきて痛みと付き合っているうちに、身体の声というものの意味がおぼろげながら分かってきました。
身体を使った動きの中で感じる心。これが人生の指針になる発想を生み出してくれるような気がしています。
