ごっこ遊び
4歳から5歳くらいになると、遊びが高度になっていきます。それは「ごっこ遊び」です。ごっこ遊びができるようになる子どもというのは、心理学的には非常に大きな成長を遂げていると理解できます。
ごっこ遊びでは、「何とかマンごっこ」をして戦闘ヒーローを演じたり、「ままごと」をしてお母さんを演じたりします。想像の中で「今の自分ではない誰か」になれるということです。
そして、相手の子は悪者役を演じたり、赤ちゃん役を演じたりするわけです。お互いにこの想像の世界を共有して遊びが成立するのです。
子どもだって、今の自分は小さいし力がないことを分かっています。知恵もなければ身体も大きくはありません。その現実を忘れているわけではありませんが、「あたかもヒーローであるかのように」ふるまい、「あたかも母さんであるかのように」ふるまいながら遊ぶことができるわけです。
うそ(?)を演じることができる
これは、言葉は悪いですが、「うそ」を生きることができているわけです。自分がヒーローではないことを分かっているけれども、ヒーローになりきっているわけですから、それが「うそ」であることは分かっているでしょう。
この「うそ」が可能となるように、自分で自分にトリックをかける能力が高まっていると言えるかもしれません。
ある意味、そういう二重の自分を生きているわけです。小さな子どもである現実の自分とヒーローの自分の二重性です。この二重性を生きつつ、遊びとして「あたかもヒーローであるかのように」ふるまうことを優先できるわけです。
この「あたかも〇〇であるかのごとく」を優先させられるということは、社会に適応するうえでなくてはならない能力です。
社会への適応
言うまでもないことですが、社会で生きるということは、自分の欲求よりも社会からの要求の方を優先させなければならないことが多いものです。
面白くない上司の話に対して「あたかも面白いかのごとく」ふるまい、自信はないのに「あたかも自信があるかのごとく」ふるまわなければならない局面もあるでしょう。「なにか変だな」と思っても「あたかも変ではないかのごとく」ふるまってスルーすることもあるでしょう。
子どもも同じです。友だちから意地悪をされても「傷ついていないかのごとく」ふるまったり、転んで痛くても「痛くないかのごとく」ふるまって我慢できるようになります。
ごっこ遊びができるようになるということは、我慢強くなって社会適応の能力が高まっていくということでもあるのです。
過剰適応
ただし、「あたかも〇〇のごとくふるまう」ことがあまりに過剰になると、過剰適応という不適応状態に陥ることがあるので注意が必要です。
親の顔色をうかがって、「親が望む子どものごとく」ふるまっているうちに、本当の自分は何をしたいのか、どのように感じているのかということが分からなくなっていき、苦しくなったり無気力になったりするのです。
ウラのある自分
思春期くらいになると、「あたかも〇〇のごとくふるまう自分」に嘘の自分を嗅ぎ取って、これではだめだ、と感じてしまうことがあります。
「ウソを演じている自分」に不誠実さや罪悪感を抱いてしまうわけです。多少うそを演じることくらいはだれでもやっていること、それはそれでいいじゃないかとは思えないのですね。自分にはウラがある、ということを許せないのでしょう。
こうして「今の自分ではだめだ」と自己否定をし、「演じているのではなく、それが本当になるようにもっと努力する必要がある」と感じてしまう人もいるのです。それをやりすぎることが、やがて過剰適応につながっていくようになります。
過剰適応の先送り?
過剰適応気味でも、それに持ちこたえている段階では、まだ苦しみとは感じられず、むしろ「がんばっている自分」と感じられることもあります。周りの期待を自分の望みになるように自分を鍛えよう、もっと良い自分になろうと努力しているわけですから。
過剰適応は当の本人よりも周りの人の方が早く気づくことも多いものです。ですから、「もっと自分を大切にして」、「少し休んだ方がいいんじゃない」などと声をかけることもありますが、この段階で本人は「まだ大丈夫」と思って先送りしてしまいます。
それが、ある些細なことをきっかけにして崩れてしまうのです。カウンセリングをしていると、こういうプロセスで自分を見失ってしまった人と会うことが少なくありません。こういう人とのカウンセリングでは、本当の自分を取り戻していくということがテーマになっていきます。