町のカウンセリング
病気療養が長引いている人や障害のある人がおられます。なかなか仕事に行けず家の中で療養している人もおられます。
そういう患者さんに対して、病院ではカウンセリングを提供していないことも多く、その場合、患者さんは町のカウンセラーのところに行くことがあります。そういう立場でのカウンセリングの話です。
ゆっくりは休めない
そういう人たちはとても焦っておられます。「周りの人からどう思われているだろうか」、「家族に迷惑をかけているのではないだろうか」と。
医療従事者や家族は「ゆっくりしていていいんだよ」、「今は休むのが一番」と言ってくれます。ても、本人はそうはいかないのです。
「本当にそうなのだろうか」、「良いわけないではないか」。そういう悩みが語られます。
そして、社会から取り残された気持にもなります。こういったことが心の中でごちゃ混ぜになるのです。
モヤモヤをゴミ箱に
カウンセラーに話しても病気が治るわけではありません。障害がなくなるわけでもありません。
ただ、そのようなモヤモヤを心にとどめておくのは辛いので、話を聴いてほしいというのです。そういうニーズがあるように思います。
つまり、心の中のモヤモヤ(心のごみ)をカウンセラーというゴミ箱に投げ捨てて、心を浄化させたいというニーズです。
話されることは、「今のままの自分ではいけないのは分かっているけど頑張れない」という堂々巡り。カウンセラーも一緒に堂々巡りをせざるを得ないこともよくあります。
ただ、ごみ箱に捨てることはできますので、少しだけ心は軽くなります。
もう一つのニーズも
しかし、クライエントさんのニーズは、単純に心のゴミをごみ箱に捨ててスッキリしたいというだけではないと思います。もう一つのニーズが隠れているように思うわけです。それは「そんな自分を社会に受け止めてもらいたい」というニーズです。
医療従事者が休めというのは当たり前。家族が理解してくれるのは感謝です。しかしそれだけではやはりモヤモヤしてしまう。それは、社会が自分をどう見ているかが分からないからです。
そして、その社会の代表として、カウンセラーが位置づけられていることがあるように思います。
カウンセラーは第三者
カウンセラーは身内ではありません。医師でもありません。いわば第三者です。そのカウンセラーの第三者性が、社会を代表しているように受け取られるのだと思います。
はっきりではないのですが、カウンセラーから受け入れられるということは、社会の一部から受け入れられるという感覚をもたらすようです。
モヤモヤをそらす
「とりあえず心の安定が必要」、「今は体調を安定させることが一番」。そういう言葉をカウンセラーから言われると、医師や家族と同じことを第三者(=社会)からも言われるので、「やはりそうなのだ」と気を取り直して、モヤモヤした気持ちをそらしたり、我慢することができるというのです。
「今は安定を最優先しなければならない」と再確認できるのです。そして、次のカウンセリングの時間までモヤモヤを抱えつつ、じっと療養を続けることができるようです。
カウンセラーは医療従事者や家族ではない第三者。客観的に自分を見て評価してくれる社会的な存在。クライエントさんにとってカウンセラーはそんな存在でもあるように思います。
そんな存在から受け入れられることは、社会から受け止められることのように感じ取ってもらえるのだと思います。
病院のカウンセラーではなく町のカウンセラーは、クライエントさんにとって特別な第三者として位置づけられることになります。そのことを心にとどめておきたいと思っています。
