外国籍の子ども
最近は外国籍の子どもが増えています。もちろん保護者も増えています。そのため、スクールカウンセリングでも、外国籍の児童生徒やその保護者との面接の機会が増えています。
そういう人たちと話していると「文化的な違い」というものを考えざるを得ません。カルチャーギャップを感じるのです。
いくつか例を挙げてみましょう。
エプロンはあるからいらない
家庭科の授業でエプロンづくりをすることになっていました。ですからそのための教材費を集める必要がありました。
しかし、ある外国籍の保護者は「うちにエプロンはあるからいりません」といって教材費を払いませんでした。全然悪気はないのです。「エプロンが必要になったら買うから大丈夫です」という感じです。
子どもの方も「分かった」といって何とも思っていません。「うちにはエプロンがあるからいらないってさ。ママがそう言っていたよ」という感じです。
もちろん、どの家庭にもエプロンはあるでしょう。しかし、子どもの教育のためと思って、日本人家庭は当然のこととして教材費を払います。エプロンがあるかないかの問題ではないという前提が皆わかっているわけです。
修学旅行は遊び
修学旅行にもいかない外国籍の子がたくさんいます。修学旅行には積立金が必要ですが、それを払わないからです。こちらも悪気はありません。お金がないわけでもなさそうです。「遊びに行くのだからそんなにお金をかける必要はない」と考えるわけです。
日本人の感覚では、「修学旅行は貴重な思い出づくり」「子どもに友だちとの楽しい思い出を作ってほしい」と願う親心が働きます。
半分遊びであることは分かっているのですが、それはそれとして「行かせてあげたい」と思うのですが、そのあたりの前提を共有していないわけです。
修学旅行の思い出というのは、多くの日本人の保護者は共有して持っているものです。その思い出がある人とない人の違いでしょう。
ママの誕生日だから休む
これはよく聞く話ですね。「明日はママの誕生日だから学校を休む」というものです。家族を大切にする文化では、身内の誕生日は一大事。学校よりも家族でそのお祝いをするのが当たり前ということです。
学校と家族どっちが大切か。そういわれるとほとんどの日本人は家族と答えるでしょう。「それなのに、どうして日本人はママの誕生日なのにママの誕生日を一緒にお祝いしてあげないの?」と逆に不思議がられます。
「かわいい」は子どもっぽくていや
思春期になると大人に憧れをもち始めます。クールで可憐な大人っぽさに憧れるのですが、日本の思春期は「かわいい」が席巻しています。アニメやゆるキャラのようなものが好まれます。
しかし、これがたまらなく嫌で自分には合わないという外国籍の子(特に女子)がいます。
周りの日本人がいつまでも子どもで幼稚で自分と合う友だちがいない、というわけです。小学校の高学年くらいから日本にやってきた子はときどきこういうことにギャップを感じるようです。
正の理想自己と負の理想自己というのがあります。正の理想自己とは「あのようになりたい」という憧れの自己像です。これに引っ張られて、そうなれるようにがんばろうと思ってそれに動機づけられます。
負の理想自己とは、「ああはなりたくない」という嫌悪すべき自己像です。この自己像を回避し「そうならないように離れていたい」ということに動機づけられます。
つまり、外国籍の子にとって日本の同級生たちは「負の理想自己」ばかりというわけです。こうなると同級生とのかかわりが乏しくなってしまいます。
スカートの下にジャージ?
ファッションに厳しい子もいます。冬などは制服のスカートの下にジャージのズボンをはいている女子がいますが、これが不格好で信じられないというのです。
そのファッションでさらに革靴など履かれると、あまりにも不格好で見ていられないというのです。
「なるほど、言われてみればそうだよね」と思うのですが、日本人の自分としてはその不格好さは「許せる範囲」です。その「範囲」が違うのですね。
男尊女卑
外国籍の家庭の中には、ビックリするほどの男尊女卑が当たり前になっている家庭もあります。
「女子に教育はいらない」「だから高校は近くの公立に行けばよい」というわけです。「お兄ちゃんは遠くの私立に通わせてもらっているのになぜ?」というところで苦しむ子もいます。
昔の日本にもこういう感覚はありましたが、今はこのような感覚はかなり廃れていると思います。女子にだって教育は必要で大切なもの、と思う家庭の方がずっと多いのではないでしょうか。
日本の学校で育ってきた外国籍の子はこのことで非常に苦しむことがあります。「親は分かってくれない」「自分を愛していない」というのです。
お母さんを説得し、お父さんを説得して、なんとか子どもの進路を開拓していく担任の先生の姿も見かけます。
子どもだけ日本人
小さいころに日本にやってきた子は日本の文化や価値観に染まっていきます。日本語もペラペラ。しかし親世代は全く日本語が話せないし日本の文化が分からないということもあります。
こうなると、家庭の中で日本と出身国のカルチャーギャップが発生することもあるようです。そして親子関係に亀裂が走ります。
社会適応
カウンセリングでは、居場所がなかったり、居心地の悪い環境の中で苦しんでいたりする人の相談を受けます。
そういう人が「社会への適応」を果たせるにはどうすればいいかということを一緒に考えるのです。
「社会への適応」や「環境への適応」とは、環境を変えるために働きかけたり、環境に自分を合わせたりするわけですが、どちらかというと変わるのは個人の方になります。
適応促進的アプローチ
クライエントが、自分の置かれた環境や状況の中で、いかに自分を変えていくか、そして自分を高めていくか。そういう支援になることがしばしばあるわけです。これを「適応促進的アプローチ」と呼ぶことができるでしょう。
適応促進的アプローチは、変わるのはどちらかというと個人の方です。一方、環境を変えていこうとするアプローチもあります。生態学的アプローチと呼びます。
生態学的アプローチ
「社会(環境)への適応」を目指す場合、環境はそのままということになりがちです。しかし、外国籍の子どもが増え、不登校の子どもも増えて、生成AIの進化が著しい現代では、環境(=学校)の方も変わっていかなければなりません。
これまで通りというわけにはいかないのですが、そこで求められるのが生態学的アプローチ。
これは、個人よりもむしろ環境を変えて、多くの人にとって適応しやすい場を作っていこうとするアプローチです。
スクールカウンセラーの制度も生態学的アプローチの一環として考えることができます。スクールカウンセラーを配置し相談室を作って(つまり環境を変えて)、学校に居心地の悪さを感じている子を救っていこうという発想です。
スクールカウンセラーには個の特性や文化の違いを考慮しながら、「適応促進的アプローチ」と「生態学的アプローチ」の両方を使って支援を組み立てていくことが求められています。
ハプスタンスアプローチ
つまり、個人にも頑張ってもらい、個人が頑張れるように環境も変えて、その両者がフィットするところを探っていこうということです。このフィットするところで人は成長します。
ここがフィットしてくると、変化の予兆・予感がなんとなく漂ってきます。そして、”ふっとした拍子”に変化が訪れることがあります。偶然も重なったりして、ちょっとしたハプニングが起こるのです。
そのハプニングが状況を好転させることがしばしばあります。そのような偶然の訪れも想定しておくアプローチを「ハプスタンスアプローチ」と言います。
私はスクールカウンセラーとして、「適応促進的アプローチ」や「生態学的アプローチ」で対応しつつ、新しい変化を待つ「ハプスタンスアプローチ」による引き寄せの効果もあてにしながら仕事をしているところがあります。
