ケアとセラピー
東畑開人さんの『居るのはつらいよ』という本があります。臨床心理士である著者が精神科デイケアの中で奮闘する様子が描かれています。
この本の中にケアとセラピーがどのように違うのかということが書かれており、とても参考になりました。まとめると次のような違いがあるそうです。
| ケア | セラピー |
| 傷つけない | 傷に向き合う |
| ニーズを満たす | ニーズの変化 |
| やってあげる | やらせる |
| 支える | 介入する |
| 開放 | 閉鎖 |
| 水平 | 垂直 |
| 構造 | 人 |
| 蓋をする | 蓋を取る |
| 依存 | 自立 |
| 生活 | 人生 |
| 安全 | 成長 |
| 生存 | 意味 |
| 平衡 | 葛藤 |
| 平和 | 事件 |
| 素人 | 専門家 |
| 日常 | 非日常 |
| ケ | ハレ |
| 地 | 図 |
| 空間 | 時間 |
| 円 | 線 |
| 風景 | 物語 |
| 中動態 | 能動態 |
少し丁寧に考えていきましょう。
傷との関係
ケアもセラピーも患者・クライエントの傷を対象にしています。特に心理の場合、病気や事故、喪失体験、恐怖体験といった辛く思い起こしたくないような出来事による心の傷が対象になります。
ケアではその傷に触れません。それ以上傷つけないようにするためです。そっとして快復を待ちます。
反対にセラピーは、その傷を治し克服させようとしますから向き合っていきます。
ニーズとの関係
ケアでは患者・クライエントのニーズを満たすためにやってあげることが多くなります。支えるためです。
セラピーでは患者・クライエントのニーズを変えて、世のため人のために役立つようにいろいろなことをやらせて介入していきます。
解放か閉鎖か
ケアは誰にでも解放されています。人と人との関係は水平的で横のつながりの中でドンドン広げることができます。傷ついた人をケアすることは誰にでもできますから、専門家とか治療室といった枠はなく解放されています。いつでもだれでもできます。
治療(セラピー)は大っぴらにやるものではありません。診察室や手術室、相談室という閉じた閉鎖的な空間の中でなされます。そこには厳然とした医師と患者、手術者と被手術者、知識・経験が豊富な人とそうでない人というように縦の関係、垂直の関係があります。閉鎖的ではありますが頼りがいもグッと増すでしょう。
構造と人
ケアでは、主に構造(環境や組織)を変えて個人を支えます。変わるのは構造(環境)側です。
一方セラピーでは、変わるのは個人の側です。個人が環境の中で自らを変えていく(=成長していく)ことを支援します。
この表を見るとそういうことが分かりますが、だんだんと下に進むにつれてわからなくなっていきます。
蓋をする・取る
これは傷つきや弱さに「蓋をする」「蓋を取る」ということでしょう。傷に触れないで、そこはとりあえず蓋をするのか、それとも、これまで蓋をしていた出来事(傷つき)に向き合っていく(蓋を取る)のか、ということでケアとセラピーは異なります。
依存と自立
ケアは相手の依存を受け入れます。具体的な生活上のニーズを満たしてその生活を支えるわけです。支えつつ支えられもする。お互い様といった心持ちでしょう。そうやって安全の確保が優先されます。
一方、セラピーの方は自立を目指します。わが人生をどのように生きるのか、どのような成長が必要なのかを考えます。今の自分は頼りなく依存的な状態だけれども、それを乗り越え脱していくことが目指されます。自己実現を目指して成長していくことが想定されています。
生存と意味
ケアが必要な人はピンチな状態にあります。たとえば事故で傷を負ったという場合、「まず生きること」「生きていればそれでいいではないか」といったことが目指されます。生存が最重要となります。
セラピーの場合、ピンチでどうしようもなくなったこの傷ついた自分というものの意味、そして自分を傷つけるこの出来事の意味、究極的には生きる意味は何なのかを探究することが最重要となります。
平衡と葛藤
平衡というのはバランスのことです。ケアではバランスを大切にします。食事のバランス、栄養バランス、運動と休息のバランス。人と環境のバランス。中庸を目指し波風を立てません。平和です。葛藤も引き起こされません。
セラピーの方は葛藤を抱えます。触れたくない出来事、触れたくない傷口に触れるのですから、どうしようか、やっぱりやめておこうかと葛藤があるでしょう。しかし、それを乗り越えないと自分の人生動かない。葛藤します。バランスを崩すこともあり、いろなハプニングもあります。事件です。翻弄されます。その中でとにかく頑張らなければなりません。頑張りますから成長もあります。
素人と専門家
ケアは素人どうしの関係と言えるかもしれません。お互い素人。だから知恵を出し合って横の関係、水平の関係でお互い助け合います。それは時間や空間を区切らず、ごく普通の日常(ケ)の中で支えあいます。
セラピーの関係には専門家がいます。すると専門家と非専門家、医師と患者、セラピストとクライエントといった垂直の関係が出来上がります。病院や手術室、相談室といった非日常の中(ハレ)での関係です。
専門家は専門家としての倫理と責任を引き受けなければなりません。ですから、専門家には絶え間ない自己研鑽が求められます。垂直の関係を引き受ける覚悟が必要です。
地と図
ケアとセラピーは地と図の関係です。ケアは日常の中での相互依存の関係です。それは毎日の生活であり朝から晩までやっていることです。まさに地の部分です。
その中に特別な非日常(ハレ)がもたらされるのがセラピーです。セラピーは図の部分です。そして図として浮かび上がってくるのは、「私とは」「生きるとは」といったその意味の探究です。す。
空間と時間
空間はあまり変わりません。今日も明日も明後日も、あそこに山があり川が流れビルが建っています。それは予想がつきます。あのビルの裏には市役所があり駅があるということは変わりません。今日も明日も明後日も。
空間は私を包んでくれます。寝る部屋、ソファーのある部屋、仕事部屋。いつも一定です。空間の安定性はケアに近いと思います。
一方、時間です。1時間後、何が起こるかわかりません。地震が起こるかもしれませんし、誰かが訪ねてくるかもしれません。予定がキャンセルされることもあります。
事件が起こって非日常(ハレ)を生きることになるかもしれません。私のことなどお構いなしに時間は勝手に進んでいきます。何かが起こることは避けようがありません。時間はセラピー的です。
円と線
円は前に前に進んでもいつも元に戻ります。一定です。今日、明日、明後日と一日一日前に進みますが一年がめぐって元に戻ります。春夏秋冬があってまた元に戻ります。変化はありますが元に戻ります。朝が来て夜になってまた朝が来ます。前に進んでも元に戻ります。安定しています。反復です。
目の前にある景色は変わりません。風景はたいして変わらないのです。日常の営みがあるだけです。それはケア的なものです。
線は前に前に進んでも決して終わりがありません。今日、明日、明後日と前に前に進んで後戻りできません。前に進むだけで元には戻りません。物語はずっと続きます。
物語はずっと続くのです。そして、そこに一本の自分の人生の足跡が残ります。それはセラピー的なものです。
中動態と能動態
中動態とは受動態(受け身)と能動態の中間に位置する状態です。「する」と「される」の間です。
歯磨きは能動的にします。とはいえ、やらないと気持ちが悪くて、いつまでも気になってしまいます。そしてやってしまいます。習慣にやらされているともいえます。こういうのが中動態というようです。
感情もそんな側面がありそうです。相手に怒った場合、私は能動的に怒っていますが、怒らされている状態でもあります。何にもない平穏な時にいくら怒ろうと頑張っても、いくら能動的にチャレンジしてみても、それはうまくはいきません。中動態とはそういう感じ。
ケアは中動態
ケアは典型的な中動態。能動的にケアしますが、一方では、放っておけないからケアする、思わず助けてしまう(ケアする)という側面があります。「ケアさせられている」とまでは言いませんが、そんな力に促されてケアすることが多いでしょう。
「ケアする人」もケアされる
ケアは「ケアする人」だけが能動的に行っても成立しません。ケアがケアとして成り立つためには、「ケアを受容する人」が必要です。
「ケアを受容する人」は、その受容する力で、ケアする人のケアをケアとして成立させてくれています。ケアする人のケアを受容する能力を発揮することでケアするのです。
ケアを受けて「ありがとう」と心を込めて伝えることによって、ケアした人はケアされもするのです。
ケアを受けた人がそれを「迷惑だ」「やめてほしい」と拒絶するならば、ケアした人は傷ついてしまいます。「ケアを受容する能力」というのは、「ケアする能力」と同じくらいの力があります。
セラピーは能動態
治療(セラピー)は能動的です。典型例は手術でしょう。麻酔によって患者を眠らせてから能動的に行います。サイコセラピーもどちらかというと能動的です。介入したり傷に向き合わせたりもしますから。
絵を描かせたり箱庭をしたりもします。もちろん、クライエントがそれに同意すればの話ですけど、そういう能動性を発揮して行われます。
私が考えたものよりも、もっと優れた解釈があると思います。いろいろ考えてみると面白いものです。
